2025年03月29日 10:45








http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
ホッキョクグマ≫
カテゴリー │浜松市動物園
ホッキョクグマのユキ(メス)です。
1999年11月26日生まれ。
2024年3月に秋田県の男鹿水族館から来ました。
それまでいたモモはユキと交換で男鹿水族館に行きました。
2024年3月に秋田県の男鹿水族館から来ました。
それまでいたモモはユキと交換で男鹿水族館に行きました。
http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
2025年03月27日 15:41

http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
広島原爆語りべ≫
カテゴリー │その他

あの日を、わたしは忘れない
河野キヨ美
河野キヨ美
1945年、私は14歳、中学校2年生でした。戦争が激しくなり、男の人は兵隊に取られて、人手が足りなくなりました。
そこで、国は学徒動員令を発令して、中学生は、大人の仕事を手伝うことになりました。
3、4年生は、呉や広の軍需工場に動員されました。
1、2年生は、学校で兵隊さんのシャツやズボンを縫いました。
学校には、たくさんの足踏みミシンが運ばれてきて、被服工場になり、毎日一生懸命にミシンを踏みました。
また、敵兵が来たら竹やりで戦うのだと先生から教えられ、毎朝、薙刀の稽古をしました。
勉強はなく、ペンを持つことはありません。
私たちは、鉢巻きをしめた軍国少女でした。
1945年8月6日、原爆が落とされた時、私は爆心地から35キロ離れた静かな田舎の村に住んでいました。
朝早く両親が飛行場を作る作業に出かけたので、私は3歳の甥の面倒を見ていました。
甥は爆撃を避けて、広島から、1人で疎開してきていました。
甥に朝ごはんを食べさせようとしていた時のことです。
突然「ドッカーン」と大きな爆発音がしました。
私は隣の家に爆弾が落ちたのかと思い、びっくりして裸足で家を飛び出しました。
しかし、家の周りには何事も起きていません。
不思議に思いながらしばらく庭に立っていると、山の向こうから、白い雲が音もなくむくむくと、湧き上がるのが見えました。
雲は見る見るうちに巨大なきのこ雲になりました。
テレビも電話もない時代だから、何事が起きたのかさっぱりわかりません。
両親は留守なので、大変不安になりました。
私の家の前には、芸備線の鉄道が通っていました。
が、なぜかその日は汽車は動きませんでした。
夕方になり、動き始めた汽車は、広島から沢山の負傷者を運んで村の駅に帰ってきました。
それらの人々から「広島に大きな大きな爆弾が落とされ、広島市は全滅した。」という話が伝わり、たちまち村中が大騒ぎになりました。
村では、仕事や学校に通うため、広島まで行く人が大勢いました。
私の家では、姉が2人広島市に住んでいました。
1人は結婚して宇品に、1人は広島赤十字病院に勤めていました。
話を聞いた両親は、姉は2人共死んだと思いました。
父親は村の世話役をしていたので、動けません。
母と私が、翌日朝一番の列車に乗り、姉を探しに広島に向かいました。
汽車の中は肉親を探す人々で一ぱいでした。
汽車は2時間位走り、終点の広島駅が被爆しているため、手前の矢賀駅で途中下車しました。
汽車から降りて、プラットホームに立つと、物すごい悪臭がしました。
動物を焼くような、物が腐った焼け焦げたような臭いに息がつまり、目が開けられませんでした。
ようやく慣れて目を開けて驚きました。
昨日までそこにあった広島の街や家々がきれいに消えて無くなり、黒い黒い焼け野原になっています。
あちらこちらに、まだ煙がくすぶっています。
広い広い焼け野原の向こうに、遠く、瀬戸内海に浮かぶ似島が、緑色にくっきりと見えたのが印象に残りました。
肉親を捜す大勢の人に押されるようにして、市内に向いました。
道の反対側には、被爆して怪我をした人々の市外に逃げようとする長い長い行列が続いています。
その人たちは、ちりちりのばさばさの髪をして、衣服は焼け焦げ、半分裸です。
血まみれの人もいました。
火傷をした皮膚が肩から剥がれ、剥がれた皮膚がぼろきれのように指先にたれ下がったまま、そろり、そろりと歩く姿は大変気味悪く、幽霊のようでした。
私には同じ人間とは思われませんでした。
裸の少女を連れた男の人が大きな声で、「誰かモンペを貸して下さい。」と叫んでいましたが、余分なものが無いので黙って通りすぎました。
ようやく市内に入ると、狭い道路の瓦礫の上に、ごろごろと死体が転がっています。
熱線に焼かれた人間の体は、2倍にも3倍にも膨らんで 赤鬼のようでした。
男か女かもわかりません。
仰向けの死体から目玉が流れ出てゼリーのような中に、黒い目玉がありました。
死体の横腹が破れて内臓が流れ出し、卵焼きのような黄色になっていました。
手や足を宙に伸ばし、何かを掴もうとしているようでした。
死体から飛び出した舌が、黒こげの三角形に長く伸びていました。
炭の棒のような死体もありました。
歩くのにうっかりして死体を踏みそうになり、怖くて怖くて母にすがって歩きました。
今でも、死体につまずいた時のぶよぶよした感覚が、つま先にのこっています。
緑姉さんが勤めている広島赤十字病院に行くために、比治山橋を渡りました。
橋の両側には、ずらりと死体が並べられ、その上に藁のこもがかけてありました。
まだ生きている人もあり、その側を通る時、こもの下から、か細い女の人の声が聞こえました。
「兵隊さん、助けてくださーい。誰か、だれか水を飲ませてくださーい。」誰もかまってあげることができませんでした。
私は今も、あの橋を渡るとき「助けてください、、、 お水を飲ませてください、、、」という呻き声が聞こえてきます。
しばらく歩いてようやく赤十字病院が見えてきました。
美しかった病院は、爆風で窓は吹き飛び、真黒にすすけていました。
病院の中に入ると沢山の負傷者が廊下まで、積み重なるようにおかれていました。
ガラスが刺さり、血まみれの人達が、折り重なるようにコンクリートの上に転がされ、「痛いようー、苦しいよー。先生、助けてー。お母さん、苦しいよー。兵隊さん助けてくださーい。だれか、だれか、、、いっそのこと殺して下さい。アーアーアー。」とうめきながら、のたうちまわっていました。
その声がコンクリートの床や壁に反響して「ウオーン・ウオーン」というすさまじい断末魔の叫びをあげていました。
お医者さんの姿は見えず、数人の看護士さんが走り回っていました。
母が、看護士さんに姉のことを尋ねると、姉は助けられ似島に運ばれたと教えられました。
病院の外に出た私は、はっとしました。
玄関の横の丸い大きな花壇に、中学生の死体が、放射状に材木のように、沢山積み重ねてありました。
私は、思わずそこに近寄りました 学生服の胸に広島第二中学校の名札が付いていました。
その頃中学1、2年生は、あのあたりで建物疎開の作業をしていましたから、戸外で熱線を浴びて一瞬に息絶えたのでしよう。
あどけない顔は眠っているようでした。
真夏日、野ざらしの死体は腐るので、あの晩病院の裏で、だれ一人肉親に看取られることもなく、ひとまとめにして焼かれたそうです。
わずか13、14歳の少年たちです。
あの日、広島第二中学校では298名が亡くなり、市内では、6000人以上の中学生が犠牲になりました。
母と私は、先を急ぎ、今度は、宇品町に住む姉を探しに行きました。
また、橋を渡りました。
橋の上に人だかりがしているので覗いてみました。
川面には海から押し戻された沢山の死体が、仰向いたり、うつむいたりして、ぽかりぽかりと波に漂っていました。
御幸橋を渡ってまた長く歩き、やっと宇品の姉の家に着きました。
爆心地から少し離れていましたから、家はガタガタに壊れていましたが、火事にはなっていませんでした。
昨夜は向宇品の山の麓で野宿をしたと言いました。
姉が生きていましたので、母は涙を流して喜びました。
姉の無事を確認した私たちは、今度は電車通りを歩いて帰ることしました。
広い街の中に死体がごろごろと転がっています。
馬も大きく膨らんで横倒しになっていました。
数人の兵隊さんが、とぼとぼと死体を集めて材木のように積み重ねていました。
あちらにもこちらにも沢山の死体の山が積まれ、集めた死体には油をかけて焼くのです。
真夏の暑い中、飲み水も食べるものもなく、兵隊さんは大変だろうと思いました。
爆心地に近くなると、焼け焦げ空っぽになった電車が沢山、軌道をはずれていました。
1台の電車のそばを通る時、ふっと見上げると、何か黒いものが幾つもぶら下がっていました。
よくよく見ると、それは人間の腕のようです。
体から千切れた腕が黒こげの炭の棒になってずらりと並んでいるのです。
こわくて息が止まりそうでした。
広島に1軒だけあった福屋デパートまで戻りました。
デパ―トは、コンクリートの外壁を残して真っ黒く焼けていました。
その外壁に沿ってぐるりと、怪我人が二重にも三重にも道路に寝かされていました。
大勢の兵隊さんも息も絶え絶えにうずくまっていました。
あのあたりに陸軍の練兵場がありました。
訓練中に被爆したのでしょうか、一人の兵隊さんと目が合いました。
何か物言いたげなその目を忘れられません。
今なら名前を聞き、水も飲ませてあげたのにと、悔しく思い出します。
私と母は、残留放射能の充満した焼け跡を一日中歩いて、その晩遅く田舎の家にたどりつきました。
家に帰ってからも、長い間、夜になると蚊帳の外に死体が転がっているように思えて、怖くて怖くて、蚊帳の外に出られませんでした。
仲良しだった隣の文子ちゃんが亡くなりました。
文子ちゃんは私の1級上でした。
広島の保健婦の養成所に通っていました。
親類の人に探しだされて3日目に、ガラスが全身にささったまま、戸板に乗せられて帰りました。
医者も薬もなく何の手当てもできないままに、死んでいきました。
熱が高く苦しい中、彼女は周りの人たちに、それぞれお別れの言葉を残しました。
「お母さん、文子はもう直ぐ死にます。私の墓の周りには、たくさん花を植えてください。お母さんは日本一のお母さんでした。」
おばあさんには、「おばあちゃん、急いで下駄を履かないで、急ぐところぶから。」と、私に向っては「きよみちやん、学校に行ったら先生方に、文子は母校の発展を祈りながら死んだと伝えてね。」と話しました。
みんな、泣きながら頷くばかりでした。
しばらくして澄子姉さんが、赤ちゃんを連れて田舎の家に帰ってきました。
赤ちゃんは、野宿をして肺炎にかかっていました。
息が苦しいので横に寝かせることが出来ませんでした。
昼も夜も姉が抱いていましたが、とうとう姉の膝の上で亡くなりました。
それからしばらくして、姉の髪が抜けはじめ、歯茎から血が出るようになりました。
私も全身に湿疹ができて、髪を切りチンク油を塗って包帯を巻き、学校に行きました。
恥ずかしくて、原因も分からないまま苦しみましたが、今頃になって、あれは放射能のせいだったのだろうかと思います。
そこで、国は学徒動員令を発令して、中学生は、大人の仕事を手伝うことになりました。
3、4年生は、呉や広の軍需工場に動員されました。
1、2年生は、学校で兵隊さんのシャツやズボンを縫いました。
学校には、たくさんの足踏みミシンが運ばれてきて、被服工場になり、毎日一生懸命にミシンを踏みました。
また、敵兵が来たら竹やりで戦うのだと先生から教えられ、毎朝、薙刀の稽古をしました。
勉強はなく、ペンを持つことはありません。
私たちは、鉢巻きをしめた軍国少女でした。
1945年8月6日、原爆が落とされた時、私は爆心地から35キロ離れた静かな田舎の村に住んでいました。
朝早く両親が飛行場を作る作業に出かけたので、私は3歳の甥の面倒を見ていました。
甥は爆撃を避けて、広島から、1人で疎開してきていました。
甥に朝ごはんを食べさせようとしていた時のことです。
突然「ドッカーン」と大きな爆発音がしました。
私は隣の家に爆弾が落ちたのかと思い、びっくりして裸足で家を飛び出しました。
しかし、家の周りには何事も起きていません。
不思議に思いながらしばらく庭に立っていると、山の向こうから、白い雲が音もなくむくむくと、湧き上がるのが見えました。
雲は見る見るうちに巨大なきのこ雲になりました。
テレビも電話もない時代だから、何事が起きたのかさっぱりわかりません。
両親は留守なので、大変不安になりました。
私の家の前には、芸備線の鉄道が通っていました。
が、なぜかその日は汽車は動きませんでした。
夕方になり、動き始めた汽車は、広島から沢山の負傷者を運んで村の駅に帰ってきました。
それらの人々から「広島に大きな大きな爆弾が落とされ、広島市は全滅した。」という話が伝わり、たちまち村中が大騒ぎになりました。
村では、仕事や学校に通うため、広島まで行く人が大勢いました。
私の家では、姉が2人広島市に住んでいました。
1人は結婚して宇品に、1人は広島赤十字病院に勤めていました。
話を聞いた両親は、姉は2人共死んだと思いました。
父親は村の世話役をしていたので、動けません。
母と私が、翌日朝一番の列車に乗り、姉を探しに広島に向かいました。
汽車の中は肉親を探す人々で一ぱいでした。
汽車は2時間位走り、終点の広島駅が被爆しているため、手前の矢賀駅で途中下車しました。
汽車から降りて、プラットホームに立つと、物すごい悪臭がしました。
動物を焼くような、物が腐った焼け焦げたような臭いに息がつまり、目が開けられませんでした。
ようやく慣れて目を開けて驚きました。
昨日までそこにあった広島の街や家々がきれいに消えて無くなり、黒い黒い焼け野原になっています。
あちらこちらに、まだ煙がくすぶっています。
広い広い焼け野原の向こうに、遠く、瀬戸内海に浮かぶ似島が、緑色にくっきりと見えたのが印象に残りました。
肉親を捜す大勢の人に押されるようにして、市内に向いました。
道の反対側には、被爆して怪我をした人々の市外に逃げようとする長い長い行列が続いています。
その人たちは、ちりちりのばさばさの髪をして、衣服は焼け焦げ、半分裸です。
血まみれの人もいました。
火傷をした皮膚が肩から剥がれ、剥がれた皮膚がぼろきれのように指先にたれ下がったまま、そろり、そろりと歩く姿は大変気味悪く、幽霊のようでした。
私には同じ人間とは思われませんでした。
裸の少女を連れた男の人が大きな声で、「誰かモンペを貸して下さい。」と叫んでいましたが、余分なものが無いので黙って通りすぎました。
ようやく市内に入ると、狭い道路の瓦礫の上に、ごろごろと死体が転がっています。
熱線に焼かれた人間の体は、2倍にも3倍にも膨らんで 赤鬼のようでした。
男か女かもわかりません。
仰向けの死体から目玉が流れ出てゼリーのような中に、黒い目玉がありました。
死体の横腹が破れて内臓が流れ出し、卵焼きのような黄色になっていました。
手や足を宙に伸ばし、何かを掴もうとしているようでした。
死体から飛び出した舌が、黒こげの三角形に長く伸びていました。
炭の棒のような死体もありました。
歩くのにうっかりして死体を踏みそうになり、怖くて怖くて母にすがって歩きました。
今でも、死体につまずいた時のぶよぶよした感覚が、つま先にのこっています。
緑姉さんが勤めている広島赤十字病院に行くために、比治山橋を渡りました。
橋の両側には、ずらりと死体が並べられ、その上に藁のこもがかけてありました。
まだ生きている人もあり、その側を通る時、こもの下から、か細い女の人の声が聞こえました。
「兵隊さん、助けてくださーい。誰か、だれか水を飲ませてくださーい。」誰もかまってあげることができませんでした。
私は今も、あの橋を渡るとき「助けてください、、、 お水を飲ませてください、、、」という呻き声が聞こえてきます。
しばらく歩いてようやく赤十字病院が見えてきました。
美しかった病院は、爆風で窓は吹き飛び、真黒にすすけていました。
病院の中に入ると沢山の負傷者が廊下まで、積み重なるようにおかれていました。
ガラスが刺さり、血まみれの人達が、折り重なるようにコンクリートの上に転がされ、「痛いようー、苦しいよー。先生、助けてー。お母さん、苦しいよー。兵隊さん助けてくださーい。だれか、だれか、、、いっそのこと殺して下さい。アーアーアー。」とうめきながら、のたうちまわっていました。
その声がコンクリートの床や壁に反響して「ウオーン・ウオーン」というすさまじい断末魔の叫びをあげていました。
お医者さんの姿は見えず、数人の看護士さんが走り回っていました。
母が、看護士さんに姉のことを尋ねると、姉は助けられ似島に運ばれたと教えられました。
病院の外に出た私は、はっとしました。
玄関の横の丸い大きな花壇に、中学生の死体が、放射状に材木のように、沢山積み重ねてありました。
私は、思わずそこに近寄りました 学生服の胸に広島第二中学校の名札が付いていました。
その頃中学1、2年生は、あのあたりで建物疎開の作業をしていましたから、戸外で熱線を浴びて一瞬に息絶えたのでしよう。
あどけない顔は眠っているようでした。
真夏日、野ざらしの死体は腐るので、あの晩病院の裏で、だれ一人肉親に看取られることもなく、ひとまとめにして焼かれたそうです。
わずか13、14歳の少年たちです。
あの日、広島第二中学校では298名が亡くなり、市内では、6000人以上の中学生が犠牲になりました。
母と私は、先を急ぎ、今度は、宇品町に住む姉を探しに行きました。
また、橋を渡りました。
橋の上に人だかりがしているので覗いてみました。
川面には海から押し戻された沢山の死体が、仰向いたり、うつむいたりして、ぽかりぽかりと波に漂っていました。
御幸橋を渡ってまた長く歩き、やっと宇品の姉の家に着きました。
爆心地から少し離れていましたから、家はガタガタに壊れていましたが、火事にはなっていませんでした。
昨夜は向宇品の山の麓で野宿をしたと言いました。
姉が生きていましたので、母は涙を流して喜びました。
姉の無事を確認した私たちは、今度は電車通りを歩いて帰ることしました。
広い街の中に死体がごろごろと転がっています。
馬も大きく膨らんで横倒しになっていました。
数人の兵隊さんが、とぼとぼと死体を集めて材木のように積み重ねていました。
あちらにもこちらにも沢山の死体の山が積まれ、集めた死体には油をかけて焼くのです。
真夏の暑い中、飲み水も食べるものもなく、兵隊さんは大変だろうと思いました。
爆心地に近くなると、焼け焦げ空っぽになった電車が沢山、軌道をはずれていました。
1台の電車のそばを通る時、ふっと見上げると、何か黒いものが幾つもぶら下がっていました。
よくよく見ると、それは人間の腕のようです。
体から千切れた腕が黒こげの炭の棒になってずらりと並んでいるのです。
こわくて息が止まりそうでした。
広島に1軒だけあった福屋デパートまで戻りました。
デパ―トは、コンクリートの外壁を残して真っ黒く焼けていました。
その外壁に沿ってぐるりと、怪我人が二重にも三重にも道路に寝かされていました。
大勢の兵隊さんも息も絶え絶えにうずくまっていました。
あのあたりに陸軍の練兵場がありました。
訓練中に被爆したのでしょうか、一人の兵隊さんと目が合いました。
何か物言いたげなその目を忘れられません。
今なら名前を聞き、水も飲ませてあげたのにと、悔しく思い出します。
私と母は、残留放射能の充満した焼け跡を一日中歩いて、その晩遅く田舎の家にたどりつきました。
家に帰ってからも、長い間、夜になると蚊帳の外に死体が転がっているように思えて、怖くて怖くて、蚊帳の外に出られませんでした。
仲良しだった隣の文子ちゃんが亡くなりました。
文子ちゃんは私の1級上でした。
広島の保健婦の養成所に通っていました。
親類の人に探しだされて3日目に、ガラスが全身にささったまま、戸板に乗せられて帰りました。
医者も薬もなく何の手当てもできないままに、死んでいきました。
熱が高く苦しい中、彼女は周りの人たちに、それぞれお別れの言葉を残しました。
「お母さん、文子はもう直ぐ死にます。私の墓の周りには、たくさん花を植えてください。お母さんは日本一のお母さんでした。」
おばあさんには、「おばあちゃん、急いで下駄を履かないで、急ぐところぶから。」と、私に向っては「きよみちやん、学校に行ったら先生方に、文子は母校の発展を祈りながら死んだと伝えてね。」と話しました。
みんな、泣きながら頷くばかりでした。
しばらくして澄子姉さんが、赤ちゃんを連れて田舎の家に帰ってきました。
赤ちゃんは、野宿をして肺炎にかかっていました。
息が苦しいので横に寝かせることが出来ませんでした。
昼も夜も姉が抱いていましたが、とうとう姉の膝の上で亡くなりました。
それからしばらくして、姉の髪が抜けはじめ、歯茎から血が出るようになりました。
私も全身に湿疹ができて、髪を切りチンク油を塗って包帯を巻き、学校に行きました。
恥ずかしくて、原因も分からないまま苦しみましたが、今頃になって、あれは放射能のせいだったのだろうかと思います。
http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
2025年03月24日 11:13





http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
オオカンガルー≫
カテゴリー │浜松市動物園
今年の2月に上野動物園から来たオオカンガルーです。
オオが付くのでカンガルーの中では一番大きい種類と思ってしまいますが、一番ではなく二番目に大きなカンガルーになります。
ちなみに一番大きなカンガルーはアカカンガルーです。
ちなみに一番大きなカンガルーはアカカンガルーです。
http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
2025年03月11日 09:40






http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
三月≫
カテゴリー │絵手紙
三月
草や木がいよいよ生い出る春はじめ
待っていました一枝の春
草や木がいよいよ生い出る春はじめ
待っていました一枝の春
かじかんだ手にふうっと息をかけてとっておきの春を待つ
少しの暖かさ うれしい春はじめ
ボケているわけではありません ボケの花咲きました
苺がり行って来ました 大粒で最高
お元気ですか
http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
2025年02月06日 15:44






http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo
二月≫
カテゴリー │絵手紙
二月
立春とはいえ寒い日々です お体大切に
立春とはいえ寒い日々です お体大切に
プランタで可愛いラディッシュ出来ました
鬼はそと福はうち
あわてずゆっくりね
お体大切に
大きい大きい苺 甘いね
http://d--member.com/beauty/matumotoseitaiin
https://www.facebook.com/smile48matsumo